いつもとなりにいた人が…nekonezumiのブログ

2020年6月、いつもとなりにいた人が脳梗塞で虹の橋を渡りました。あっという間の出来事でした。

忘れ去られる恐怖

ねことねずみ

ちょうど台風の日になりました。


6月3日、命日が。


だから、旦那さんを忍んで毎年遠方から来てくれる友人2名が、


来ませんでした。




地元の私たちは集まって彼を忍んだけど、


何か心に引っかかった。


もちろん、当日ふたりからのラインに、「こんな嵐がひどくちゃ、あの人だってきっと『来るな』と言うよ」と返信したけれど、


本心、寂しかったです。

これが6年ということなんだな、と思った。




もしこれが、例えば2年とか3年とかなら、あの人達はいくら悪天候だと言っても来てくれたはずなのに、と思った。


でも彼らふたりで話したんだって。

「俺たちが台風のなか来るのを、故人は望まないよな」って。




いいえ、でもあの人は、来てほしかったはずだわよ。


1年に一度なんだから、嵐のなか自分のために来てくれて、懐かしく忍んで欲しかったと思うわよ。


皆が密かに心に抱くエゴイズムって、許されるものもあるわよね。




責めるわけじゃない、

私自身、自分自身も環境も、確実に違ってきているから。


仕方がないんだと思います。

それが月日というもので。




でも、腑に落ちないし、心底淋しかったです。


6年経って、初めて「忘れ去られる恐怖」というのを感じました。

6年を前に。

ねことねずみ

もうすぐ6年になります。


あの人が倒れたのが2020年6月1日の早朝。


息を引き取ったのが、丸2日後の6月3日の朝でした。




今年は6年前と曜日が同じなんですよね。


6年前の6月1日も月曜日だったの。


あの頃ちょうどコロナが流行り出したころで、


土日も特に、どこに出掛けるわけでも無く、


5月31日、日曜日の最後の晩餐は、


スーパーで買って来た味付け肉を焼いて、

セロリだのキュウリだのの野菜スティックにマヨネーズ付けて、

スープはインスタント…という、

かなりお粗末な夕食になってしまったのを覚えています。

(はぁ、旦那しゃま、ごめんなちゃい。)




5月31日は今日のような気温だったから、

「シャワーかお風呂、どっちにする?」って、私、聞いたのね。


そしたら「う~~ん、お風呂。」って、あの人、言ったの。


私、一瞬「シャワーでよくね?」と思って、でも「わかったよ~」と湯船にお湯を張ったけど、


後で思えばきっと、あの人、

もう体温の維持も難しくなってて、だから身体を温めたかったのかな、なんて考えたりしました。





あれから6年です。


早かったかな?遅かったかな?と自分に聞いたけど、


よくわかんない。




でも、彼が居なくなった当初に比べたら、


確かに、思い出す回数は減りました。



ほら、テレビのインタビューかなんかで、


家族が亡くなってから何年も何十年も経った人が、


「今でも、一日一回は必ず思い出すねぇ。」なんて言う場面があるでしょ。


まさに、あんな感じです。


「一日一回」というのにはだいぶムラがあって、


思い出す時は何度も思い出して涙が出てくるときもあるし、


そうかと思えば、写真の前で手を合わす時にお喋りするだけの時もある。


でも、思い出さない日なんて、今までに一度もありませんでしたよ。




ただ、思うけど、


家族が亡くなって何十年も経つ人が、「一日一回は…」なんていうところをみると、


たぶんずっと、おそらく私が死ぬまで、


今現在のような、私にとってのあの人の存在の濃さ(?)は、


もう変わらないだろうな、と思うんです。


もうずっと、私にとってのあの人の存在感は、このまま変わらない。





…ということは、


これから先もずっと、ずっとずっと、


旦那さんは私を守ってくれるんだろな、と思うんですよね。



少なくとも、私が勝手に抱いている『守ってもらっている』という感覚は、


これからもずっと変わりないような気がするんです。





これはこれで、なかなか良いわよ。


孤独感や寂しさを、そんなに感じずに済むから。

ねことねずみ

もうすぐ旦那さんが逝っちゃって6年になろうとしています。


あと2カ月弱で。


うそみたい。………あぁ、そんなに経ってしまったか。


道理で独り暮らしが板につくわけだ。




桜の季節、もう私の住む地域では過ぎてしまって、


でもまだ散り切らない花々が、吹く風に必死でお母さん枝にしがみ付いていたりするんだけど。


思い出すのですよね、桜を通して旦那さんの姿を。


亡くなる2ヶ月前に、ふたりで地元の公園に桜を観に行ったこと。


昨年?一昨年?にも思い出の写真をアップしましたが、コロナの影響で人っ子一人誰も居ない公園の桜が、それはそれは見事に咲き誇っていたことを。


また、もう6年以上前のことになるんですけど、弘前城の桜を観に行ったのは確かGWだったような気がするんですが……、


テレビで言ってたけど、今年はもうそろそろ満開なんですって?



地球の異常気象が、いろんなところに影響してて、


私の地元の桜まつりは、昨年までは、桜の花がすべて散り終わった後に行なわれていて、


今年はとうとう日をずらして祭りが行われたようです苦笑。


でも今年は、少なくともうちの団地の小さな公園では「満開」があったんですよ。


去年は満開すらなかったんだ、ちりぢり薄ぼんやりとまだらに咲いて居て。





話題が別のほうにそれました。


旦那さんとの思い出は、日を追うごとに少しずつ、少しずつ、現実味が失われてきています。


ほんとうにもう、まるで夢のよう。




もちろん、この季節になる度に、


私は死ぬまで旦那さんとの思い出を心に想うことになるのだと思うんですが、


ぞれにしても、年毎に、現実味が失われて行ってしまうんですよね。


淋しいけれど、それが「生きている」ことなんだと思います。


「生きている者」と「逝ってしまった者」の分かれ目(別れ目)なんでしょね。


悲しいけれど、これが真実。





でも、私、


最近富に思うんですが、


私は旦那さんと過ごした思い出があるから、他人を見る目や人生観が変わったな、と思うんです。


「私の人生も捨てたもんじゃないよな」って思うんです。


またそのうち、なにか良い事が起こるかもしれないな、とも思ったりしてね。




だからほら、今年もまた素敵な桜が見られたよ。


幸せって、そういうことなのかもしれないですね。