いつもとなりにいた人が…nekonezumiのブログ

2020年6月、いつもとなりにいた人が脳梗塞で虹の橋を渡りました。あっという間の出来事でした。

夢物語 yume-monogatari

「夢物語、だったんだなぁ」と思いました。


だから先週、主治医に「紹介状、書こうか?」と言われて断ったんだと、


自分で合点がいきました。


夢物語が終わっちゃうのが嫌だったのです。






要は、


受傷時からリハ病院を退院するまでの間、


ふわふわした夢物語を私は紡いでいたのですね。


すっかり現実離れした夢物語を。





だから、急性期病院への通院が無くなることで、すっかり100%現実に引き戻されてしまうのが嫌だったんです。


いつまでも、いつまでも、現実に戻りたくなかったの。


ずっと夢の中に居たかったんです。恋というおもちゃで遊びながら。





確かに現実離れしていました。


私は患者さんなので、病院ではその組織に社会参加はしていませんものね。


病院での社会って、つまり頂点に院長、副院長が居て、その下に部長クラスの医者が居て…て、


そしてその、どちらかといえば真ん中ぐらい?にリハビリの先生とかが居るんでしょ?


でも。その図式の中に、患者さんは入っていませんよね。介護施設の利用者さんと同じような立場です。


つまり、患者さんってすごく気楽で、組織とか立場とかそんなめんどくさいこと考えなくてよいんですよ。


だから私も二つの病院とも、自分のそのまんまが出せたんだと思います。




だから楽しかったよ。


めっちゃ天国でした。


ナースと喋っているときも、リハビリ室で施術を受けているときも、いっつも笑ってばっかりいましたもの。


「楽しい人ですねぇ」とか「人間力がある」なんて最高級の誉め言葉を戴いたこともありました。




だけど、そろそろ夢物語も最終章です。


目を覚まして現実に戻らなければなりません。


歳が我が子ほど離れた、現実離れした浮世の恋も終焉です。


(できるかなぁ。)

小花


長実雛芥子。


ナガミヒナゲシ というそうです。





今日は休みだったので、ウォーキングは明るいうちに2回歩きました。


だから、最近にしては珍しく7500歩ほど歩いています。


仕事に戻る前は割と歩いていたのですが、戻ってからは下手をすると2000歩ぐらいしか歩かない日さえあり、


健康寿命を延ばすために、これからもずっとウォーキングは必須だなぁと思っています。





見上げると、桜の木はもうすっかり葉桜です。


路面に、誰かに踏まれたような花びらが痛々しく張り付いているのが、とても痛ましい気がしました。


ついこの間は、あんなに美しく皆の目を引き付けていた花びら達なのに。






そんなことを思いながら歩いていると、歩道のあちこちに可愛い小花が咲いているのを見つけました。


いつもは暗くなってから歩くから、だから気が付かなかったんですね。


あ、可愛いヒナゲシだ。




最近は便利な機能があるから、道端に立ち止まって早速グーグルで画像検索。


可愛い花の名称を見つけました。



ナガミは長実。その名のとおり果実(芥子坊主)が細長いところから、その名が付いたようです。




だけどこんな可愛い花なのに、外来種だし毒を持っているのだって。


ネットを見る限り、「危険外来種」だの「駆除方法」だの、そんなんばっかです。


ケシの仲間だから、そこはしょうがないのかもしれませんが…。





だけど私自身の事として、


外来種で毒を持っている…と知った途端に、


可愛いと感じたことや、写真を撮ったことすら恥ずかしいと思う、この感性は一体何なのでしょう!?


花々にとっては、自分が外来種だろうが何だろうが人間が勝手に連れてきたのであって、


そんなの関係ねー(古っ)話だし、


毒は、その植物にとっては身を守るためのもの、の筈です。


毒のある植物は害だ、悪だと決めつけるのは人間の勝手であって、


そんな一方的な感覚を疑問に思わない、そんな自分こそ恥じなければならないなぁ、とちょっと反省をしました。




ね。


桜の花と、ケシの花。


対照的な二種類の花がほとんど時期を同じくして開花し、双方人の心を和ませる。


それなのに一方は崇め奉られ、一方は駆除対象とさえなってしまう。


そんなん人間の勝手な話じゃねーかよ、と思うわけです。


そんなことばっかりやっているから、


地球が温暖化したり自然災害が巨大化したりするんだよ。




でもそういう事ってあながち、


誰かの偏見や一方的な考えで、実はあっちこっちにある話かもしれません。


片寄った勝手な価値観で物事を捉えてしまうこと。


そしてそれは、不用意に他人を傷つけたり、そのもの自体の方向性を変えさせたりしてしまうかもしれません。


在ることだけを見て判断する勇気と気構えを、大事にしたものですね。

そういえば、「昇華」という言葉があるな…と、ふと思いました。


昇華って調べてみると、心理学や化学、ビジネス等でいろんな意味があるそうですが、


私が思ったのは、「情念などがより純粋な,より高度な状態に高められること。」という意味の ”昇華” です。




昨年の夏からの二つの恋愛を通して、


気が付けば、


私にとっての旦那さんは、その存在意義が以前とはまるっきり違ってしまっています。





亡くなってしばらくは寂しくて、寂しくて、泣いてばかりいたんです。


だけどいつの間にかその涙も枯れ、少しずつ落ち着きを取り戻しはしましたが、


その時点での旦那さんは、私にとってまだ「家族」で「パートナー」で「連れ合い」でした。


だから、居なくなってしまったことでぽっかり空いてしまった空間に、強い違和感を持っていました。


もしかしたら、ぽっかり空いてしまった空間を埋めるための、二度の恋愛だったのかもしれません。





そして、その二つの恋愛も終わってしまった今、


”ぽっかり空いてしまった空間” に特に違和感を感じない私が居ます。


ぽっかり空いた空間は、今でも確かにあるんですよ。以前と同じ大きさで深さの穴が。


だけど、それがあるのが普通のことになっているというのか。


特にダメージを感じなくなっているというのか。





そして、そのことと多分関係があるのが、


旦那さんがもはや、私の「家族」でも「パートナー」でも「連れ合い」でもなくなっているという事なのです。


つまり、それが、”昇華” なの。


私にとっての旦那さんが、以前よりずっと純粋な,より高度な状態に高められているという事なんです。


たぶんもう、男じゃない。異性じゃない。そういうレベルじゃないんです。




イメージに一番近い言い方が、神様と私の間にいる存在。


私、特に信仰を持っているわけではないんですが、


60年弱生きてきた経験上、この時空間にはたぶん何かの意思が働いているのだろう、と思っています。


そうでなければ説明のつかないことを、私も幾度も経験したからです。


そしてその、偉大なものに、多分旦那さんは私より近い位置にいるのだと思うんです。





亡くなったから、行けたんだな。 その、以前よりずっと純粋で高度な状態に。


そして私はそれに気づけた。今旦那さんがどこに居るのかを。



でも、あながち間違ってはいないと思うんですよ。


死んじゃったらそれで終わり、無に帰る、なんて、あるわけないじゃないですか。


死ぬ前日まで、あんなにまでエネルギッシュで情熱的に、生きることに執着していたあの人が。


まるっきり無いことになるなんて、そんなことが、あるわけない。


私を愛してくれた優しい暖かいその想いが、まるっきり無くなるなんて、そんなことが、あるわけない。





でしょ?


そうは思いませんか?


あなたの大事な人が、死んだその日から、まるっきり無かったことになるなんて。




つまり、人は死んだら昇華するんだと、私は確信を持って言う事ができます。


より高い次元に純粋さを増して、姿を変えて生き続ける。





それが、正真正銘の「命」だとは思いませんか?