仕事から帰ってきて、いつものようにお線香に火をつけて、
手を併せて旦那さんに話しかけをしました。
「今日も一日、見守ってくれてありがとうね」。
今日もそうだったけど、
具体的にあったことをお喋りしながら「ありがとね」を言うとき、涙が出てくることがあります。
…というか、最近は感謝の気持ちが湧く時は、ほぼほぼ泣いてるな。
歳のせいか涙腺の締りも悪くなってるし。。。
旦那さんに対する感謝の気持ちと、
それから先日書いたような、旦那さんを悪者にする気持ち。
両方、ほんとうの私の気持ちです。
ですが結局のところ、
彼の誘いに頭を縦に振ったのは間違いなくこの私で、
そこから先は、大人なら取らなければならない自分の責任だったと思っています。
大体にして、彼とねんごろになったのは私が42歳の時だったか。 いい加減、善悪の分別がつかなきゃおかしい歳頃だし、そこに、私が責任を回避する理由は何もありません。
彼には、私が必要だった理由がありました。
そしてまた私にも同じく、彼を必要とした理由があった。
だから、お互いがお互いを必要としていて、だから、責任は五分々々です。
彼の存在はとりあえず置いておいて、私自身がこの生き方を選んだのだと、以前友人にも話したことがありました。
私には、彼を必要とした理由があった…と書きましたが、
だから今、私は彼を失っても、とりあえずは前を向いて生きていることができています。
連れ合いが死ぬと、生き残ったほうは強くなる…とはよく聞く話ですが、
私の場合、もう少しプラスアルファがありました。
私が、旦那さんとの生活を通して学んだことは、
生きるって結構楽しい事もあるものなんだな、ということでした。
彼は、楽しいことを自分から探してチャレンジするような性質を持っていたし、
そのイベントに人を巻き込むことも知っていました。
だから、彼との生活は、単純に楽しかったです。
次は何が起こるんだろう?
どこに連れて行ってくれるのだろう?
そんなウキウキ、ワクワクした気持ちは、私が産まれてこの方経験したことが全くなかった感情でした。
だから私、いつのまにか、
人って悪い人ばっかりじゃないし、
自分にこれから起こることも、悪い事ばっかりじゃないのかもしれない…て、思うようになってたんです。
そんな、たぶんきっと多くの人達にとっては子供の頃に習得するようなことを、
私が学び知るまでには42年間も掛かっちゃった。
だけど、人間が生きる上で非常に大切な、それらのことを、
私は旦那さんが居たから、知ることができたのです。
だから、私にとって絶対に必要な人でした。
出会うべきして出会った人。
そして、語弊を恐れずに言うならば、彼が妻帯者であったということは、私にとっては大した重要なことではなかったのです。
彼が亡くなった後、
落ち着きを取り戻し、少しずつ冷静になって来た時に、
彼の写真に手を併せれば、
悲しみよりは、感謝の気持ちが湧くようになったのです。
感謝の気持ちと共に、うれし涙…? 有り難いと思う気持ちからの涙…が湧くようになりました。
この感情は、ほんとうに、有り難い感情です。
有り難い…とはよく書いたもので、そうそう簡単に出てくる感情ではないと思います、少なくとも私の場合は。
ですが、この感情………胸にジンとする熱い思い………が湧くと、その涙は、なんだか私の中の悪いものすべてを洗い流すような、そんな威力を持っているように思います。
だから、この「有り難い感謝の気持ち」を、私はとても大切に思っています。
そして、彼の写真に語り掛けることで、自分の今日一日の感謝と反省と、明日への力を得ています、旦那さんから。