いつもとなりにいた人が…nekonezumiのブログ

2020年6月、いつもとなりにいた人が脳梗塞で虹の橋を渡りました。あっという間の出来事でした。

悲しみと苦しみと寂しさを吐き出したくて

みなさんのブログをあらためて読んでいて、いろいろ考えさせられました。


私は今の、この、いつまで続くかわからないような悲しみや苦しみ、寂しさと、


いったいどう付き合っていけばよいのでしょうか。





もし、こんな状態が長く続くとするならば、


それこそ今、人々がコロナと出会って生活が変わり、皆がそれを「新常識」と呼ぶように、


私もまた、今までとはまったく違う人生が待っているのかもしれません。





街の景色も、人の表情も、テレビの画面や空の月さえも、


旦那さんが生きていたころとは全く違うものに見えてしまいます。


街を歩けば一緒に入ったレストランが悲しいし、


もうすぐ始まるクリスマスのイルミネーションは、見るたびに悲しくなるでしょう。


誰かの笑顔を見れば、旦那さんもあんな風に笑ったなぁ、なんて寂しく思い出してしまいます。




旦那さんがいなくなって少しの時間が経つけれど、


この感覚は、どちらかと言えば深まるばかりで癒える気配もありません。





だからもし、この状態にまだかなりの時間耐えなければならないのであれば、


この状態が、私にとって、まさしく新しい日常なのであり、


世界のすべてが変わってしまった…と言ってもよい状態なのかもしれません。





旦那さんを突然失ってしまって、その後、鬱を患った方を知っています。


私も一歩間違えば、…たぶん深く考え込む時間が増えれば…、彼女と同じようになりかねないと思っています。


そのために、考え込む時間を減らすために、何かを始めなきゃと思ったのです。





以前、旦那さんと一緒にいたら、いろんな場面で”浮き浮きワクワク感”がありました。


今はもう、前とは比べようもないほど小さいけれど、


小さな小さな”浮き浮きワクワク感”が欲しいと思い、それが私を救ってくれると考えました。


例えば、ネットやリアルの買い物を楽しむこと、ミシンで何かを作ること、


それから、ブログも書くこともきっとそうです。




ブログは、見えないけれど、向こうに読んでくれてる誰かがいて、


自分の悲しみや苦しみや寂しさ、そんな正直な思いで投げたボールを


だまってキャッチしてくれている読み手の方たちがいて、


そういう見えない多くの方たちに、今日もささえて戴いている気がしています。

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