割り切る
生協のカタログの中に、来年のカレンダーを見つけました。
「ひゃぁぁ! 2022年だって!」。
早いものです。
来年になれば、旦那さんが知っている私より、2つ歳を取ります。
(また目尻のシワが増えます。)
毎年少しずつ、
旦那さんが知っている私から、だんだんだんだん歳を取っていきます。
いずれそのうち、まったく別人のようになってしまって、
あの世で再会しても、私のことがわからなかったりするのじゃないかしら。
逆手に取れば、死ぬって最強ですよね。そこから絶対歳を取らないのだもの。
いつまで経っても、旦那さんはあの時のままです。
それに引き換え、生身の私は、少しずつ少しずつ歳を取ります。
来年…2022年は、いったい何が起こるのでしょうか。
考えてみれば、旦那さんが亡くなったのは昨年の6月ですので、
まだコロナが始まったばかりと言うか、全然いまのようではなかったから、
私の中では何となく、コロナ禍 = 私ひとりの生活 という印象があります。
本当は旦那さんが元気な頃も、
そろそろマスクやアルコールが不足してみたり、それなりに危機感はあったのですが、
まだ、それなりの危機感、でしかありませんでした。
だから私の頭の中で、
コロナ以前の生活は、旦那さんと一緒の生活で、
コロナにおびえる生活は、私一人の生活…と、くっきり分かれちゃっています。
ですからもしかしたら、
家族が亡くなったことによる生活の変化は、普通の場合より大きいかもしれません。
だけど逆に、その悲しみを割り切ることは、却って比較的容易なのかも…とも思います。
過去の楽しかった夢のような生活と、
現実の厳しい娯楽の少ない生活とに、すっかり二分されちゃっているぶん、
過去は過去、今は今…と、切り離し易いし、割り切り易いのかもしれません。
それってなんだか、悲しいけどね。