いつもとなりにいた人が…nekonezumiのブログ

2020年6月、いつもとなりにいた人が脳梗塞で虹の橋を渡りました。あっという間の出来事でした。

禁欲的な心理(真理)

前回、昭和世代は執着するパーソナリティだ、と書きました。


私もその一人です。


こだわりを持つ、何かを手放せない、そんな不器用な生き方をしています。


だから想い人を簡単に諦めることができていません。




ですが、「恋」というのは一面、苦しさはあるけれど、


また、いくらそれが叶わぬ恋でも、想うことには恐ろしいほどの刺激と快感がある。


それもまた事実だと思います。


よく言う言い回しに、「胸が熱くなる」という言葉があるけれど、


今の私は、この、胸が熱くなる、締め付けられる、そんな刺激と快感を手放したくありません。


たとえ、叶わぬ恋でも。


これもまた、「執着」だと思います。






だけど、一方で。


この間も書いたけど、最近少し「ストイックさ」にも魅力と快感を覚えている私が居て、


その…。  洗い流されて芯だけの状態になりたい自分がいます。


すべての欲望を自身から取り去りたいような自分が居て、


自分の欲求と、実際にすることやすべきことを、バッサリと切り分けたい自分が居ます。


そうするには今のところ、


例えば、ものを最小限しか食べない(体内に入れない)とか、


私はジョギングはできないためウォーキングをすることで、自分を浄化しているつもりになっています。


自分の内にある汚いもの(汗や脂肪も含む?)を浄化する。


それが一番簡単にできるのが、今のところ、私にとっては減食とウォーキングです。




でもたぶん、私が浄化したいのは汗や脂肪や老廃物だけではなく。


心の中の汚いものを、今の私はすべて追い出したいのだと思います。


今回の2人への恋の想いもまた然り。


今度の恋は、本来なら罪ではないはずなのに。





……。 


妻子ある人…つまり、3年半前に亡くなった私の ”旦那さん” は、


本来、私が愛してはいけない人でした。


私達が恋をすることで、傷つけてしまう人がいた。


禁断の恋。 


だが、その愛欲に負けてしまった私達が居ました。





なるべく見ないように、触れないようにしながら、過ごしたつもりです。


だけど、本当の意味で、それは不可能でした。


少なくとも私にとっては。




私の深い、深いところに、旦那さんが居なくなってしばらく経った今でも、


その傷は残っています。


”旦那さん”の家族を傷つけておきながら、その私が、その罪悪感を「傷」と表現して差支えないのなら。




今回の恋は、そういう意味で「罪悪感」はまったく感じなくてよいはずの恋でしたが、


以前からの私の傷は、とても深い深いところにあるらしく、


私が恋をすること自体を、真の私はそれを許さないらしいです。



お前なんかが、人に恋をする資格はない。



お前は、また、他人を不幸にするつもりか。





逆説になるのかもしれないが、


だからストイックなあの人に惹かれたのだと、今頃になって理解しました。


自分の存在に対して深い疑念を持っている、


私はたぶん、そんな彼に惹かれたのだと思います。


ストイックな心境にいたる深層心理をちゃんと理解しているわけではないけれど、


私が自分の心の内側を見たときに、


おそらく似た者同士で惹かれたのだと、それだけは理解しました。






……。実はこの記事、


こんなことを書くつもりは全くなかった記事でした。


書きながら、自分の気持ちに気付いてしまった。


私にしては珍しい事で、この記事を書きながら、泣き腫らしております。

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