いつもとなりにいた人が…nekonezumiのブログ

2020年6月、いつもとなりにいた人が脳梗塞で虹の橋を渡りました。あっという間の出来事でした。

狂気

昨日はとても忙しい土曜日になりました。


午後からはまた県庁所在地に赴いて、有志の会に参加をしたのですが、


そこで、少し不思議なことを皆で話しました。


ズバリ、「自分の狂気」についてです。





「え?」と思った。


それは、ごく一部の限られた人たちが持つ感情なのかもしれない。


ですが、改めて自分の内側を探ってみた時に、


心の中に割り切れない歪み(ゆがみ・ひずみ)が全くないと言い切れる人…は、


いったいどれだけ居るのでしょうか。





参加者の一人がこんな話をしてくれました。


その方は、自分の思いを押し通すため、相手の考えを変えるために、他人に対してとても厳しい言葉を使ってしまう…のだそうです。


それが身内であればなおの事。


旦那さんや子供たちを、どうにかして自分の思い通りにするために、


ついついキツい言葉で相手をなじってしまうんだとか。




…私にも過去、思い当たる節があります。


旦那さんに対してです。


疲れていたりイライラしていたりして、いつもだったらスルー出来るはずのことを旦那さんに対して怒ってしまった時に、


一言いえばいいだけなのに、


とても厳しい言葉で責めるように言ってしまうことがありました。


そうすると旦那さんは、「また始まった~。」とうんざりしたような顔をする。


そんなことが、何ヶ月かに一度くらいあった気がします。



私は自分のそういうところが、父親とそっくりなことに気が付いています。


自分が幼い時に、嫌な思いをしたクセに、


大きくなったら、まるで父と同じことをしている自分が居ます。


本当にそれは、狂気以外の何ものでもありません。


大事な、大好きな旦那さんに対して、


自分が寂しく悲しくなったと同じことをしている、私自身に気付くわけなので。


そういうときの旦那さんは、幼かった私とたぶん同じく、寂しい悲しい表情をしているわけなので。






皆の話を聞いているうちに、


私は、もうひとつの自分の狂気について話をする気になりました。





相手の死を願う……、私の心にある殺意についてです。


先日このブログにも少し書きましたが、


籠を水に沈めることを考えた、自分が居ます。


籠には鳥が一羽、入っていました。


私は生きたままのその鳥の、命を奪うために籠を水に沈めたいと思いました。




鳥は、姿を変えた私の恋する人ではありました。


自分自身の欲求を否定し、


ちょっと間違えば、自分の一次的な欲求まで否定するようなところのある人でしたが、


ですが私自身も、若い頃を振り返ると似たり寄ったりのところがあった。


今よりもっとストレートに、自分自身の存在自体を否定する私が居ました。





なので前にも書いた通り、


その鳥はまさに、私自身の姿だったのかもしれません。





私は自分のことを、


つまり私は、私自身を水に沈めたかった。


そしてその気持ちは、


今現在にも続いているものなのです。





要するに、今回の私の彼に対する恋愛は、


どちらかと言えば、疑似恋愛的な要素の強いものだったのかもしれません。


妄想の中で、自分自身を愛し慈しみ、


愛でたところで突き落とす。


自分自身を罰するために。


不要な存在を搔き消すために。


生まれてきてしまったお前を、地獄に突き落とすために。

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