狂気
昨日はとても忙しい土曜日になりました。
午後からはまた県庁所在地に赴いて、有志の会に参加をしたのですが、
そこで、少し不思議なことを皆で話しました。
ズバリ、「自分の狂気」についてです。
「え?」と思った。
それは、ごく一部の限られた人たちが持つ感情なのかもしれない。
ですが、改めて自分の内側を探ってみた時に、
心の中に割り切れない歪み(ゆがみ・ひずみ)が全くないと言い切れる人…は、
いったいどれだけ居るのでしょうか。
参加者の一人がこんな話をしてくれました。
その方は、自分の思いを押し通すため、相手の考えを変えるために、他人に対してとても厳しい言葉を使ってしまう…のだそうです。
それが身内であればなおの事。
旦那さんや子供たちを、どうにかして自分の思い通りにするために、
ついついキツい言葉で相手をなじってしまうんだとか。
…私にも過去、思い当たる節があります。
旦那さんに対してです。
疲れていたりイライラしていたりして、いつもだったらスルー出来るはずのことを旦那さんに対して怒ってしまった時に、
一言いえばいいだけなのに、
とても厳しい言葉で責めるように言ってしまうことがありました。
そうすると旦那さんは、「また始まった~。」とうんざりしたような顔をする。
そんなことが、何ヶ月かに一度くらいあった気がします。
私は自分のそういうところが、父親とそっくりなことに気が付いています。
自分が幼い時に、嫌な思いをしたクセに、
大きくなったら、まるで父と同じことをしている自分が居ます。
本当にそれは、狂気以外の何ものでもありません。
大事な、大好きな旦那さんに対して、
自分が寂しく悲しくなったと同じことをしている、私自身に気付くわけなので。
そういうときの旦那さんは、幼かった私とたぶん同じく、寂しい悲しい表情をしているわけなので。
皆の話を聞いているうちに、
私は、もうひとつの自分の狂気について話をする気になりました。
相手の死を願う……、私の心にある殺意についてです。
先日このブログにも少し書きましたが、
籠を水に沈めることを考えた、自分が居ます。
籠には鳥が一羽、入っていました。
私は生きたままのその鳥の、命を奪うために籠を水に沈めたいと思いました。
鳥は、姿を変えた私の恋する人ではありました。
自分自身の欲求を否定し、
ちょっと間違えば、自分の一次的な欲求まで否定するようなところのある人でしたが、
ですが私自身も、若い頃を振り返ると似たり寄ったりのところがあった。
今よりもっとストレートに、自分自身の存在自体を否定する私が居ました。
なので前にも書いた通り、
その鳥はまさに、私自身の姿だったのかもしれません。
私は自分のことを、
つまり私は、私自身を水に沈めたかった。
そしてその気持ちは、
今現在にも続いているものなのです。
要するに、今回の私の彼に対する恋愛は、
どちらかと言えば、疑似恋愛的な要素の強いものだったのかもしれません。
妄想の中で、自分自身を愛し慈しみ、
愛でたところで突き落とす。
自分自身を罰するために。
不要な存在を搔き消すために。
生まれてきてしまったお前を、地獄に突き落とすために。