いつもとなりにいた人が…nekonezumiのブログ

2020年6月、いつもとなりにいた人が脳梗塞で虹の橋を渡りました。あっという間の出来事でした。

籠の鳥

季節はだんだん本格的に春めいてきて、


今日あたりはスプリングコートも着ずに外を歩ける温かさ。


あの人が居なくなってから、4回目の春です。




旦那さんが亡くなった頃を思い出すと、


よくも、あの苦しみを乗り越えたものだなぁ、とつくづく思います。


何でも話せる女性の友人と、旦那さんの一番仲良かった男性が、


私の悲しい訴えを聞いて下さらなかったなら。


そして、有志の会で、私を支えてくれる人たちが居なかったなら。




でも結局は、自分自身なんだとも思います。


人は日々変化…成長(?)…するし、


数々起こるイベントに、恐れることなく対峙しなくてはならない。


その勇気が私に備わっていたからだと思うんですね、結局は。




そしてそれは、私をこのように産み育ててくださった両親のお陰だし、


私はこれからも、それを感謝しつつ生きていかなければならないと思うんです。






今日も満開の桜の中を、夕方、帰って来たわけですが、


花曇り…という言葉があるけど、こちらの今日の天気は、晴れでもなく雨でもなく、


花曇り…というのはこういうのを言うんだな、なんて、改めて思う天気でした。






空は、すっきり晴れて青空が見えるわけでもなく、


灰色に染まって見えました。


だけど、桜色と空の灰色が妙に溶け込んで、


とても奇麗に見えました。


私はこういう色調がとても好きです。


今の私の心の色、みたいだから。




私は今、


良いも悪いも、好きも嫌いもはっきりしない感情と、向き合うことを避けています。


掘り下げるだけ、辛くなるばかりだから。


だから敢えて、向き合わない。





帰り道に咲く桜を見れば、


4年前の春にそれを見ただろう旦那さんを思い出すけど、


でも今、その桜を一緒に見上げたいのは別の人だったりします。



だけどその人とはもう、接点は無くなったし、これからももう接点は生まれない。


生まれない…というのはウソで、私が、会うことを望まないからです。


会ってもまた悲しい思いをするだけだから。


あの人は決して私の "籠の鳥" にはなってくれない、とわかっているから。





鑑賞用の”籠の鳥” にしたいだけなんだな、と、自分の気持ちを振り返って、思います。


若い頃の恋とはまるっきり違う感覚で、


でも、無償に手に入れたい。


つまり、中年壮年のオバサン達がアイドルに現を抜かす心境と結局は同じで、


アイドルの追っかけをやって、キャアキャア騒いで軽薄(?)そのもののように見えるけど、


割と理にかなった行動をとってるんだと思うんです、あのオバサンたちは。




つまりもう、生殖能力はないわけなんですよ、私も含めてオバサンたちは。


好きな男の、子を生むことは叶わない。


だけど精神的には興奮してエキサイトして刺激を受けて、


若さ(命)を保つ行動をとっているんだと思うんです。


たぶん、本能的に。




だから私は、


もう叶いはしないけど、仮にもし手に入ったら、


”籠”にその鳥を入れて、


ただただ観ていたいだけなんだな、と思うわけです。


私もまた、本能的に、自分の若さを保つために。




でも実際、鳥も籠に入れば、


”籠の中の鳥”は私の思うまま、です。




鳥の命もまた。私の思うまま。

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