いつもとなりにいた人が…nekonezumiのブログ

2020年6月、いつもとなりにいた人が脳梗塞で虹の橋を渡りました。あっという間の出来事でした。

昨日の続き

昨日の続きです。


まだ書き足りない笑。


今回の企画展を、少し別の角度から感じた展示がありましたので、その話。


すこしディープというか、アングラなことを書きます。






国立西洋美術館での企画展、


Does the Future Sleep Here?「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」の展示室の一つですが、


その部屋にはたくさんの絵画が展示されていて、


傍らに「山友会」と書かれた看板を模したものも展示されていて、


私はハッとして、引き込まれるようにその展示室に入りました。





ご存じの方は少ないかもしれません。


「山友会」についてネットにあった情報は以下のとおりです。


『 NPO法人山友会は東京の通称「山谷地区」においてホームレス支援を行っているNPO法人です。山友会は「無料診療事業」「生活相談・支援事業」「炊き出し・アウトリサーチ」「食堂」「ケア付き宿泊施設」等の事業を通して「路上生活を送らざるを得ない人々や、苦しい生活を送らざるを得ない人々が独りではないと感じて笑顔を取り戻すこと」というミッションに取り組んでいます。』




このブログには少しの絵画しか挙げませんが、


展示室にはほんとうにたくさんの絵画……山谷の様子を描いたもの…が展示されていました。




山谷という場所をご存じない方もいるかもしれません。


山谷とは、最寄り駅の南千住駅で降りて、泪橋のあたり。三ノ輪駅も近いです。


そこは、日本の三大ドヤ街のうちのひとつです。要するに、日雇い労働者の町。簡易宿泊所や薄汚い公園やボランティア施設などが雑然と並んでいる街です。


ともかく汚く、強烈な異臭もあり。行き倒れも多い。


簡易宿泊所は3畳一間がほとんどで、 1泊の料金は2千~3千円ほど。 都の2018年度の調査によると、3800人近くが暮らし、うち9割が 生活保護 受給者だそうです。


また、日雇い労働者たちにも高齢化の波が押し寄せて、現在では酒を飲んでばかりいる年金受給者がたくさんいる街になっているようです。





なぜ私がこんなことを書くかというと、


私にとって、山谷は特別な場所だからです。


だからといってボランティアとかそういった類の関わり方ではありません。


どちらかといえばもっと彼らに近い存在として、あの場所に関わりました。


実際に、かつて酒におぼれた日雇い労働者の方たちと交流を持っていたこともあります。




そんな私としては。


Does the Future Sleep Here?「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」と題された企画展の中で、


企画者が謳うところの「市民」に含めるべきマイノリティの一種であり、我々が寄り添うべきマイノリティの一種として、


山谷の日雇い労働者たちを描いた絵画群を展示することについて、


非常に強い、違和感を感じました。






「へぇ~~、いわゆる近代的な「市民」が他を排除していることを問題視しているこの企画展が、山谷の日雇い労働者の展示、やっちゃうんだぁ」と。


薄いなぁ、と思いました。


貧富の差は「差」であって、個性ではないはずです。


それに、もし見る側に訴え掛けたいのなら、少なくとも絵画よりドキュメント写真のほうが適していると思います。


絵画を描いた人、その人を取り巻く環境、その人の思い、いろんな事をその絵は語ります。


そしてその思いは観る側にも訴え掛けてくるわけで、


でも。ひとの身の上に起こった不幸に対して感じる「同情」は、突き詰めれば他人事。


社会から落ちこぼれた(マジョリティである「市民」から落ちこぼれた)貧しく薄汚い(風呂に入れないのだから汚いのは当然。)日雇い労働者を、安直に「マイノリティ」の一種とするのは、


あまりに無責任な他人事にしてはいないか。


もちろん描いている題材は、山友会のボランティアが医療支援するシーンや、簡易宿泊所のシーンではありますが、


マジョリティがそれを展示すること、観ることの意義って?


マイノリティをマイノリティたらしめているのは、そういった「他人事」にするマジョリティたちではないのか。


それに一体、


多数者が強いって、それが「常識」だって、いったい誰が決めたんだ?







作品群を横目に見ながら、その場をすぐに後にしましたが、


怒りのために、涙が次から次からこぼれてしまって、


化粧はすっかりはげ落ちてしまいました。

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