いつもとなりにいた人が…nekonezumiのブログ

2020年6月、いつもとなりにいた人が脳梗塞で虹の橋を渡りました。あっという間の出来事でした。

上京

一昨日に引き続き、実は昨日も遠出をしたのでした。




正直、テレビであれだけ「行動制限のない夏」とか謳ってて、


家族で帰省とか、楽しい家族旅行の映像とかが山ほど流れると、


決してひとのせいにするわけじゃないけど、


ひとりで家に閉じこもっているのがやり切れない気がして、


「アタシも感染対策万全にして、絶対、楽しんでやるから!!」みたいな、


ヘンなエネルギーが沸いてきてしまったのでした。


(でもそんな私を、たぶん旦那さんは天国からニコニコ見守ってくれてたと思います。)




さて昨日は、それこそ感染対策を万全にして、


上野公園内にある国立西洋美術館に行ってきました。




私、特に絵画に詳しいわけではありませんが、


たまに、美術館の雰囲気が好きで、時々出かけたくなるのです。


静かな場所で、白い壁にポツンと絵画が掛けてあって、


よくわかんないけどそれをジッと見るのが好き。


だから、旦那さんにも付き合ってもらって、


前にも何度かこの美術館には来たことがありました。


今ちょうど、リニューアルオープン記念で「自然と人のダイアローグ」という企画展が開催されていて、


何も考えずに、「のんびり」と「ぼんやり」を期待して上野まで行ったのです。





お盆休みだからそれなりに想像はしていましたけど、


かなり多くの人が居て、


ちょっと後悔しながら、それぞれの展示物を見て回りました。




その中で非常に気になってしまったのが、


フィンセント・ファン・ゴッホの


「刈り入れ(刈り入れをする人のいるサン=ポール病院裏の麦畑)」という作品でした。


ちなみにこの画は、今回の企画展のポスターに使われている作品でもあります。








私がとても気になったのが、


この画に添えられていた、ゴッホの手紙の抜粋です。




僕は、この鎌で麦を刈る人のなかに、


炎天下、自分の仕事をやり遂げようと悪魔のように闘う朦朧とした姿のなかに


死のイメージを見ました。人間は刈り取られる麦のようだという意味です。


しかしこの死のなかには何ら悲哀はなく、


それは純金の光を溢れさせる太陽とともに明るい光のなかでおこなわれているのです。






ゴッホは自身の病気のためにサン=ポール精神病院に入院した後、


窓から見える裏庭の麦畑を何度も絵にしているそうですが、


「刈られる麦」を人の死に見立て、


しかしその死を、悲哀とは逆の色調やタッチで描いています。




確かにゴッホはある種の病に侵されてはいたのかもしれませんが、


ゴッホは少なくとも「死」を、太陽のもとの明るいものとして捉えていて、


刈られた麦はその後パンに姿を変えることもあり、


「死」を真っ向から悲壮ととらえるのが正解なのか否か。


私にひとつ、強い疑問符を投げかけてくれたような気がしました。






さてと。


さてと、さてと。



絵を見て、気持ちが「のんびり」、「ちょっとしんみり」したあとに、


同じ公園敷地内にいる、これを見ないで帰らりょか。








まったく、もう。


何の魂胆も策略もなく、


なぜこんなポーズが取れるのか。


私も、是非ぜひ来世はパンダに生まれてきたいものです。

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