いつもとなりにいた人が…nekonezumiのブログ

2020年6月、いつもとなりにいた人が脳梗塞で虹の橋を渡りました。あっという間の出来事でした。

3回目のお月見

明日は中秋の名月だと、昨日のテレビで知りました。


あぁそうか、あれから3回目のお月見か。



旦那さんが亡くなった年の秋は、


この満月を、ベランダに出て一人で見あげた記憶があります。


その時はもうこのブログを始めていたので、写真を撮ったのをブログにあげました。





そして昨年は、一昨年と同じ写真を使って(手抜き!)


あの満月を見あげた日から1年経ちましたよ…という記事を書きました。






今、両方の記事を読み比べてみると、


旦那さんを失って初めての中秋の名月は、


本当に苦しんでいる…というか、


まだ明らかに、頭がぼんやりしているのがわかります。


そして、1年経った、去年の記事は、


「旦那さんへの感謝の気持ちを忘れないようにしたい」と綴っていました。





2年前と1年前の記事は明らかに違うけど、


去年の記事と、今私が日々感じていることには、大した違いはないみたい。


つまり、「旦那さんを失った苦しみからの解放」は、


どこかで止まってしまったんですね、きっと。



こういうものって人によって違うでしょうし、


私自身も日によって気分は異なります。


だけど、つまり止まるんだね、止まるという言葉に語弊があるとすれば、


ある時点から変化のスピードが急に遅滞するのだと思います。




今まで、自分のブログを


こんな読み方したことないのでわかりませんでしたけど、


でもなんとなくはわかってたけど、


やっぱり楽になるには時間がかかりそうです。





1年前に「旦那さんへの感謝の気持ちを忘れないようにしたい」という気持ちは、


なので、今も同じです。


というか、冷静に思い返すと、


死んだ人はどうしたって美化されるから、


旦那さんに感謝することは、日々時間を追って簡単(?)になっている気がします。


恨みごとや、思い出したくないこともあるにはあるんですよ。


だけど、旦那さんの写真に手を併せる時、そういうことはまず思い出しません。




でも、それでいいと思ってるの。


仮に恨みごとを思い出したりしたら、


相手が今実際に目の前にいるわけじゃないから、


確かめられないし、相手の言い訳も聴けないし、和解もできないし、


もんもんとした思いだけが残ってしまう事でしょう。


どっちにしろ人間の認知とか記憶なんて、


実際にあったことと乖離がないわけがないんですもの。


だから、死んだ方に関する記憶の美化は、ますます大歓迎です。






3年前、ベランダで並んで見た中秋の名月は、


どんな満月だったんだろう。


我が家のベランダは東向きなので、


ベランダにふたりで並んだのは、そんなに遅い時間ではなかったはずです。


「きれいだねぇ」、


「まぁるいねぇ」。


2人でそんな言葉を言いあったのだったろうか。


ベランダで並んで見たことは覚えてるけど、


細かい事はおぼろげです。





だけど結局、あの人にとっては、それが最後のお月見になってしまった。


まさか来年の今頃は、もう自分はこの世に居ない、なんて


考えもしなかっただろうに。


何だか本当に寂しいなぁ。


「私は一人だ」という寂しさと、「旦那さんが居ない」という寂しさって、


ちょっと微妙に違うんですよね。


どちらも心の奥の方が空っぽになる感じがあるけど、


「旦那さんが居ない」寂しさは、


” 頼るものがない ”心細さとか、” 話す相手(相談相手)のいない " 孤立感とか、


要するに心痛の原因が具体的な感じです。


それに比べて「私は一人だ」という寂しさは、


もう「どん底」的な、救いようのない(自分勝手な)孤立と言う感じがします。


だから、ま、これからも


「救いようのない孤立感」ではないと、自分に言い聞かせて、


こんなスタイルで生きていくとするか。

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