いつもとなりにいた人が…nekonezumiのブログ

2020年6月、いつもとなりにいた人が脳梗塞で虹の橋を渡りました。あっという間の出来事でした。

人の死

同じ拠点で働く同僚のお母様が亡くなられたそうです。


先週の土曜日に亡くなられたそうで、


私の今日一日は、


お葬式の生花を葬儀場に手配したり、


弔電を打つ準備をしたり、


その為のお金を、みんなに呼び掛けて集めたり、


やったことのない仕事なので、一日じゅうちょっと緊張して過ごしました。





私の母が死んだのは、…乳癌でしたが…、


もう四半世紀も前になるので、


どんな気持ちだったか、


正直、あまりよく覚えていないのです。


(お母さん、ごめんね。)


だけど大好きな母だったし、


毎日毎日病院に行って、ずっと付き添っていた母なので、


当初はとても悲しかったはずなのです。


だけど、四半世紀たった今、


私にとって、母の死は、そんなに大きな出来事だったとは、…あまり思えません。




つまり、手を放せる思い、だったということなのでしょうか。


だから、悲しく辛かったはずの気持ちを、あまりよく覚えていないのかしら。


当然、親は子より先に逝くのが順番でしょうし、


母の最期は癌患者らしく、憔悴しきったものでしたしね。


だから、あきらめるというか、手を放すというか、


早く楽にしてあげたい…という気持ちが、子として当然沸きました。





人はいつか死ぬって、当たり前の事なんだけど、


そして、死んだら無に帰るというのも、当たり前のことかもしれないけど、


その人の生き様や、その人の死が、


後世の者に与える影響って計り知れないと思います。





だから私たちの心って、こんなに豊かなんですよね。


ホモサピエンスが知性と文明を持って何千年かになるんでしょうけど、


その現時点での集大成が、今の私たち…ということなんでしょうね。




いきなり壮大な話になっちゃって、ぶっ飛んじゃってごめんなさい。笑。


でも、例えば旦那さんが、そして私の母が、


毎日毎日、何十年もいろんな思いで過ごして、一生を終えた、


その貴重な経験が、


彼らの死によっていっぺんに無に帰るというのは、


どうも絶対信じられなくって。


 


だからこんなヘンな文章を書きました。


私の願いだし、祈りです。


軽く読み飛ばしてくださいネ。


おやすみなさい。

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