命日
今日の朝、
旦那さんが天国に行ってしまって2年が経ちました。
とても苦しい2年でしたし、それは今後も続きます。
あの人と一緒に過ごした12年間、
生きることは楽しい事のほうがずっと多かったけど、
おそらくもう、そんな時は二度と来ないはずです。
寂しくわびしい気持ちで送る苦しい余生ではあるけれど、
でも、生きるしか方法がないから生きていく。
そんな、生きていく事にひどく消極的な生命体です。
旦那さんが息を引き取ったのは、
2年前の6月3日の、朝の6時前です。
(お医者さんが死亡診断をしたのは7時を回ってからでしたし、
寂しいSCUで、看取りがいない状態で息を引き取ってしまったので、
正確な時間はわからないままになってしまいました。)
(病院から電話がかかってきた時間は、スマホに残っているのですが、
それを今、敢えて見る気持ちになりません。)
なので、正確な時間はわからないのですが、
今朝、いつものように朝6時に目覚ましで起きて、
起きた瞬間に「あぁ、2年経っちゃった。」と思いました。
沸いた感情は、ふたつありました。
ひとつめの感情は、
旦那さんの亡くなったあの日が、だんだん遠い日になっていってしまう淋しさ、です。
旦那さんの時はあの日で止まったまんまで、
私の時間ばかりが進んでいる現実は、
2人が住む世界は今やまったく別なのだ、ということを叩きつけられるようで、
得も言われぬ淋しさがあります。
沸いた感情のふたつめは、矛盾するようですが、ほっとする思いです。
少し前から、今日を迎えることが怖くて怖くて仕方がありませんでした。
早く言えば、
旦那さんが亡くなってまる2年が経つことによって、
自分にどんな気持ちが沸いてくるのか、わからなかったからです。
この2年間、私は、旦那さんの死という想定外(?)なできごとに直面して、
いろんないろんな感情に振り回されてきました。
悲しみや寂しさというマイナーな感情ももちろんあったし、
逆に、自分でも意外なレジリエンス的な力に驚いたこともありました。
旦那さんの死を介して直面する場面場面で、
感謝の気持ちが沸くようになったことも驚きのひとつです。
でも如何せん、感情の振れ幅にはまだ問題が残っていて、
旦那さんを思い出して急に悲しくなったり、
逆に、頑張るぞー、と闘志が湧いてきたり、
「おちつき」とか「おだやかさ」という気持ちには、
まだまだ縁遠いところが残っています。
なので、2年目の命日を終えようとしている今、
とりあえずは自分自身の感情に振り回されることなく、
無事に今日一日を終えることができることに、ほっとしているところです。
でも結局、私はまだまだ、
旦那さんの死をきちんと受け入れている状態ではないのだなぁと、
思い知った、旦那さんの2回目の命日になりました。