いつもとなりにいた人が…nekonezumiのブログ

2020年6月、いつもとなりにいた人が脳梗塞で虹の橋を渡りました。あっという間の出来事でした。

現在と過去

玄関先のソーラーライトが一つ、点かなくなりそうだ…と


少し前ののブログに書きました。



あれから1ヶ月ぐらい経ってまして、


そのソーラーライトは、今はもう全然点かなくなってしまっています。




実は、旦那さんは生きていた時に、


玄関先にソーラーライトを3つ付けていてくれたのです。


ブロックをひとつ盾に置いて、


ブロックの穴にひとつずつ、ソーラーライトの杭が入って、


3つ並んで玄関先で、私の足元を照らしてくれたいた、というわけ。





3つのうちの2つは、旦那さんが亡くなってから、だんだん点かなくなっちゃって、


私が新しいものに取り換えました。


だけど3つのなかの1つ、 3つ並んでいるうちの真ん中のライトは、


旦那さんが亡くなってからもずっとずっと2年以上、


私の足元を照らし続けていてくれたのです。


だからそれを見る度、


私は、旦那さんに見守られているような、温かい気持ちになったものでした。




だけど、時間は経ってしまいます。


最後のひとつも、この夏、とうとう点かなくなってしまいました。


消えかかっている8月に書いたブログもそうでしたが、


去年の11月に書いたブログで、


この事について書いた文章を見つけたので、以下に貼り付けます。



これを書いた頃は、まだ、だいぶ、


「旦那さんが居ない」ことを受け入れてなかったんだなぁ、と思います。


旦那さんが居ない現実が、嫌で嫌で、


寂しくてたまらないし、辛くてどうしようもないし、


だから本当だったら、そういう苦しみを回避するために余計に旦那さんが必要なのに、


苦しみを昇華できないまんま、喘いでいたような気がします。


本当にたまらない気持ちだったなぁ、と思い出します。




実は今の気持ちは、あの頃とはちょっと違っています。


張り付けたブログを書いた頃はまだ、


旦那さんが居たころの「過去」と、今私がひとりで生きている「現在」は、


はっきりと切り離されたものではありませんでした。


だから、旦那さんの思い出は、思い出ではありますが、


なんというか、手を伸ばせば届きそうな感覚だったです。


(手は決して届きませんけれど。)




だけど今、その感覚はほとんど残っていません。


旦那さんが登場する思い出は、


今や「現在」とはまったく切り離された「過去」なのです。


だから、私の手はあの人にまったく届かない。


というか、「諦め」に支配されて、手を伸ばす事すら忘れてしまった気がします。




そして今は、


ただただ過去の一場面として、


恋する旦那さんを思い出して、


淋しさだけが色濃く残ってしまっている状態です。




ソーラーライトの話の続きは、また後日。

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